登校してすぐ、異様な賑わいに包まれている校内の空気を感じた。
つい先日、驕り甚だしい天狗に利用されて針の筵を体験したばかりだったため、それ関連でまた何か噂を立てられたのかと反射的に身構える。しかし女子からの視線が痛かったあの時とは逆に、今回は男子の方の落ち着きがないように見受けられる。
一体何があったのかと首を傾げていると、朝の挨拶に声を掛けてくれた友人から、尋ねるまでもなく情報が得られた。
何でも今日、転入生が来るらしい。目撃者の話によれば、それもかなりの美少女だとか何とか。道理で男子たちに落ち着きがない訳だと納得する。
それにしても新年度の開始に合わせた転校ならまだしも、五月も中旬から下旬に移る時期に転校とは、随分中途半端だな。
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何でも転入生は三年二組に配属されたらしい。二組と言えば、確か蔵ノ介のクラスではなかっただろうか。
そして朝のSHRが終わると男子は我先にと教室を飛び出し、女子も半数以上が噂の転入生を見に教室を出て行く。人の持つ好奇心と何事にも多感な四天宝寺生の性なのだろう。
生憎わたしには、元の性分もあって一生共感出来そうにもないが……。
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四天宝寺生としての性を備え、何よりもその性格上、小春が噂の転入生に多大なる興味関心を抱くのは必然と言えることだった。
実際この春、新年度の開始と同時に転入して来た人物には並々ならぬ興味関心を抱き、得意の「ロックオン!」を決めていたしな。
けれど、わたしと小春と一氏の三人で過ごすいつもの昼休み。毎日よくもそんなに話題を見つけられるものだと感心せずにはいられない小春の話に、転入生の話題が上ることは終(つい)ぞなかった。掠ることすらもだ。
わたしはそれを珍しいと思いこそすれど、周りが騒ぐほど転入生に対して特に興味も感心もないため、指摘することはなかった。
それよりも寧ろ、今日は終始黙りこくっていた一氏の密着度がいつになく高かった理由の方が、わたしには余程気になった。
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その日家に帰ると、ベッドの上にはつい先日と同じような恰好でまたも眠りこける蔵ノ介の姿があった。
こんな時間にそんな恰好で寝ても疲れは取れるどころか溜まるだけだと思い、ため息をつきつつ揺すり起こす。すると中途半端な睡眠の所為か、珍しい寝惚け眼の蔵ノ介は何を思ったのか、わたしを抱き枕のように抱え込んで再び寝息を立て始めた。
抵抗しようにも腕の力は強いし足は絡められるしで、全く効果がない。寧ろ抵抗すれば抵抗するほど、まるで押さえ付けるかのように拘束が強くなる。
そして気付けば翌朝になっていた。どうやらいつの間にか、わたしも寝てしまったらしい。
今度こそ目を覚ました蔵ノ介は現状に数十秒は固まり、真っ赤な顔で飛び起きたかと思えば、絡められている足が縺れてベッドから転がり落ちた。
それから更に一騒動あったのだが、何はともあれ、父が短期出張中だったのがせめてもの救いだ。
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背後からの突然の衝撃に驚き、たたらを踏んで踏み止まる。
肩とも首ともつかない場所に顔を埋め、腰の辺りに腕を回すしがみつくかのような抱擁に、相手が誰かなどは確認するまでもない。
頬や首筋をくすぐる黒髪を撫でて呼び掛けるが、反応はなかった。仕方がないので腰に回る腕を軽く叩き、緩みはしても解かれることはない拘束の中で身体を反転させ、向かい合う形になった一氏の顔を覗き込む。が、声を掛ける前に、今度は痛いくらいに抱き竦められた。
よくわからないが、一氏が落ち着くまで今は好きにさせておこう。
そしてせめてもの気休めにと思い、どうにか回した腕で一氏の背中を撫でてやる。
わたしはその時になって初めて、第三者 ――― どこか作り物めいた美貌を持った女子生徒の存在に気が付いた。
驚愕の色が混じる呆然とした顔で立ち尽くす彼女は、わたしの視線に気付いて一氏の肩越しに目が合うと、一転して般若の如き形相を浮かべ、射殺さんばかりにわたしを睨み付けて来た。なまじっか顔立ちが整っているだけにその迫力は凄まじく、一瞬だが気圧される。
しかし何故、見ず知らずの彼女に、わたしはあんなにも憎悪が篭もった視線で、睨み付けられねばならんのだ?
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「××さんって知っとる?」
出会い頭の第一声で投げ掛けられた問いに、わたしは首を傾げた。
突然何事かと思ったが、小春の表情は真剣そのもので、答以外の言葉を口にすることは何となく憚られた。なので大人しくその答を探し、そういえばと思い至る。
確か噂の ――― とは言っても、一週間足らずで鎮静化したが ――― 転入生がそんな苗字ではなかっただろうか。電子化された図書室のパソコンへ転入生の情報を入力する際に見た名前が、そんな語感のだったような気がする。
「ほな、××さんと会ったことは?」
無い、と思う。転入生についてわたしが知るのは、三年二組に在籍し、その名前と美少女であるということだけのため、断定はできないけれど。
ひょっとしたら、わたしが気付いていないだけで、遠目に見るぐらいはしたことがあるかも知れぬが。
その答に小春が納得したのかどうか知らんが、一先ず話はそこで終わった。
けれど立ち去る背中に、結局その問いの意味は訊けず終いだ。
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頭からずぶ濡れの身体を蔵ノ介に抱き上げられた刹那、殺気を感じた。
これまで
だがそれが判明したところで、彼女が何故わたしに憎悪を向けるのか、全く身に覚えがないことに変わりはなかった。
それでも理由を求めて働く思考はけれど、蔵ノ介の腕の力が増したことに気が逸れて途切れた。
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蔵ノ介と初めて登校を共にしたその日、下駄箱から上靴を取り出そうとしたところ、その上に一通の封筒が乗っていることに気が付いた。
表には丸みを帯びた字でわたしの名前が綴られ、裏返してみたが送り主の名前はない。
「どないしたん?」
すると靴を履き替えた蔵ノ介がいつまでもやって来ないわたしの様子を見に現れ、わたしの手にある封筒に目を止めた途端に顔を顰めた。
何故蔵ノ介がそんな顔をするのかはよくわからないが、わたしは封筒を鞄に仕舞い、急いで靴を履き替えて蔵ノ介の許へ駆け寄る。
「なあ、その手紙……いや、何でもあらへん」
わたしはまた首を傾げた。
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昼休みになり、弁当を取り出そうと鞄を開けたわたしはそこで、今朝下駄箱で見つけた封筒の存在を思い出した。
そういえばまだ中身を確認していなかったと思い、早速開封しようとしたが、小春と一氏を待たせているため弁当と一緒に持って行き、あちらで確認することにする。
そして今日のように天気が悪い日や冬の時季に利用する空き教室で、食後になってからようやく、封を切った。
中身の便箋にはたった一文。放課後、こことは別の空き教室へ来て欲しいとあった。
何度も確認してみるが、便箋にも送り主の名前はない。けれど丸っこい字はどことなく女子を思わせる。
「イヤーン! どうしたんその手紙? もしかしてラブレター!?」
「な、何やと……!? 相手は!? 送り主は誰なんや!!?」
煽る小春と騒ぎ出す一氏に、わたしは呆れてため息をついた。その可能性はまず在り得ない。
それよりもつい先程、今日の放課後は図書室に集まって勉強会をするとの話だったが少し遅れると言えば、一氏は急激に大人しくなったかと思えば突然飛び付いて来て、その後鐘が鳴ってもなかなか離れようとはしなかった。
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放課後、校内放送を利用した数学教師に一氏のことで呼び出され、どうしても来るのが遅くなってしまった指定の空き教室には既に、手紙の送り主と思われる女子生徒の姿があった。
扉を開けた音に気付いて振り返った女子生徒は、例の転入生だった。
それに驚きつつも遅れたことを謝罪すると、彼女は固より顰めっ面だった眉間に更なる皺を刻んだ。
「アンタ、何様のつもり?」
そしてその第一声に、わたしは虚を衝かれた。
「どうせアンタもトリップして来たんでしょ? みんなに気に入られるように演技してるんでしょ!? だけどね、逆ハー主はあたしよ! あたしはみんなに愛される存在なの、アンタなんてお呼びじゃないのよ!! アンタがいる所為で、あたしの計画全部メチャクチャだわ! 何よユウジと抱き合っちゃって、あたしに自慢したいワケ? あたしが呼べない蔵の名前呼んで、自分も蔵に名前呼ばれて、親密なんですってアピールのつもり? 狙い通りテニス部にちやほやされてるからって、調子に乗ってんじゃないわよ!! そこはね、あたしの場所なの! 愛され逆ハー主のあたしがいるべき場所なの!! アンタみたいな女がいていい場所じゃないのよ!!!」
そして怒涛の勢いで捲くし立てられた言葉は、その内容を半分も理解出来ないものだった。
しかし取り敢えず、自分の存在を否定された挙句に貶され、喧嘩を売られていることは理解出来た。
「ちょっと、何とか言いなさいよ! それとも図星を指されて反論もできないの?」
いや、図星を指されるも何も、言われた内容をほとんど理解出来ていないため、それすらもわからんのだが。そんな勝利を確信したかのような顔をされても困る。
けれど、それでも一つだけ、言えることがある。わたしに何様だと言ったそちらこそ、一体何様なのか、と。
瞬間、顔を赤くした彼女が右手を振り上げ、それと同時に背後で閉めたはずの扉が開く音とわたしの名前を叫ぶ声がして、目の前の彼女から気が逸れたほんの一瞬に、理性が野性を上回った。
気が付けば素人相手に技を決めた後の自分がいて、わたしは蒼褪めた。
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転入生はその後、転入して一ヶ月も経たずにまた転校して行った。
絶対にわたしの所為だ。咄嗟とはいえ柔道の技を仕掛けるなど、過剰防衛甚だしいだろ。いくら何でもやり過ぎだ。
彼女自身は固より親御さんからも訴えられるようなことはなかったが、だからこそ逆に罪悪感が募る。
「そんなに気に病まんでも、遅かれ早かれ結果は変わらんかったと思うで。あの子裏でいろいろ嗅ぎ回って、何や企んどったみたいやし」
「せやな。当人がおらへんなってからこんなこと言うんはアレやけど、あの子ちょっと、変な感じやったちゅうか……」
「……俺、初対面でいきなり下の名前呼び捨てにされたで」
「ああ、それ俺もや。席が近かった訳でもあらへんのに、わざわざ俺と謙也のとこまで自己紹介に来て「蔵って呼ぶね!」やで? 「呼んでいい?」ならまだしも「呼ぶね!」って何やねん。確定事項なんか」
「それならまだええやろ。俺なんか、名乗ってへんのに「あ、ユウジだ!」やぞ!? おまけにベタベタして来よって、思い出しただけで鳥肌立つ……!」
「つまり、自分に問題があったんを人の所為にした因果応報っちゅうヤツやね。だからそんな悔やんでばかりおらんで、次への教訓にした方がよっぽど建設的やで」
……そうだな。
彼女が去り行方が知れなくなった今、わたしに出来るせめてもの罪滅ぼしは、二度と同じ過ちを繰り返さないことだろう。
しかしそれとは別に気になるのだが、彼女が言っていた“ぎゃくはーしゅ”とは、一体何だ?